ボトルメール1999年05月20日 17時04分

流れ着いたボトルメール
 Windows版のボトルメールが「あれて」きました。Mac版とちがって、直接返事が出せないので、垂れ流しのひどいものが沢山流れてきます。Mac版の返事要求付きメールは、Windows版には届かない様です。Mac版だと、Macユーザーからしかきません。しかも、殆どが、返事要求付きです。ボトルメールの「愚痴を書いて流す」という目的とは、違った方向にいっているようです。リクルート提供だから、出会いの演出という意味が濃くなってきているのかな。これで、Windows版もMac版と同じになると、やたらと「お手紙ちょうだい」ばかりになってしまう。そうじゃなくて、ネットという広い世界に「愚痴」や「メッセージ」や「素敵な写真」や「絵」を、拾ってくれるであろうたった一人のために流す、という本来のだいご味がなくなってしまうように思います。

 まあ、ボトルメール結婚というのも、すでにあるそうですが、なんか「すけべ根性」まるだしで、ちょっと、いやなんです。「二人の出会いは偶然だったの」とかなんとかいっても、はじめにボトルを流した時点で、出会いを求めていたからの結果であって、それは「必然」なんですね。昔、「パソ婚」なる言葉が流行りましたが、あれも「出会い」の責任を別のものに置き換えるという「合理化」にすぎません。BBSだろうが、ICQだろうが、ネットミーティングだろうが、本音に「出会い」があるなら、それは「すけべ根性」なんです。

 だから、素直に、「私はすけべなんで、結婚しました」といえばいいものを、なかなか、人はそこまでいわないものです。で、「素敵な出会い」「偶然の出会い」「未来的な出会い」「夢のような出会い」「童話のような出会い」などと「合理化」しているのです。自由という観念が育っていない人は、他者に縛られて、自我を得ていますが、他者にゆだねているんだという自覚さえない人を、「愚か者」というのでしょうか。

「友だちから始めて下さい」という前に「人間から始めてください」だろうか。自由を持たない人は人と人の間には入れない。だから人間じゃあない。結局、相手よりも、束縛された「代行物」に心を縛れている。それは、世間体とか、つきあいとか、顔向けとか、常識とか、皆がしてるとかだったりする。