大量破壊兵器による正義の行使2002年09月13日 13時00分

 1945年8月9日,小倉は晴れ晴れとした夏日だった。父は頭上遥か高空に光るものを見た。その刹那,彼の肉体も魂も蒸散してしまった。父の働いていた工場はおろか街全体が蒸散してしまった。
 現実の1945年8月9日,惨劇は長崎におこった。父の造船技師になる夢が実現していたなら,やはりあの日,彼は蒸散していただろう。小倉が曇天だったゆえ,父の夢が破れたゆえ,こうして我も存在している。


 米国同時多発テロ一周忌にあたる9月11日,合衆国大統領は,「大量破壊兵器による抑圧は,断じて許さない」旨の演説を行った。また国連の場で「我が国と世界の市民に悲しみをもたらしたテロ攻撃から1年と1日を経て、我々はここに集った。」と演説した。 さらに,日本国首相は日米首脳会談に先立ち、同行記者団に「いかなる攻撃にも大義名分が必要」と語った。

「大量破壊兵器」とはすなわち核兵器のことをさす。これを用いた「抑圧」,「テロ」そして「攻撃」には『大義名分』が必要だというのだろうか? およそ戦争とは互いの『正義』を掲げて行われるものだ。相手側の掲げる正義は,己から見れば『不正義』なのは言うまでもないことだが,正義が我にあれば,相手側市民の頭上に投下してもよいという意味なのか。 

 合衆国大統領は,広島及び長崎市民に対し,まずは謝罪し,彼の国の過去の不正義を認めた上で,己の掲げる正義とやらを行使すべきだ。彼の国こそが世界最大最強の『大量破壊兵器』保有を持って、全地球市民を威圧し,現実にそれを使用した唯一の国であるという事実を忘れてはならない。