つまらなくなるテレビ番組1999年08月06日 04時35分

 フジテレビで以前やっていた深夜番組に『社会の窓』というものがあった。これがとてもシュールでシニカルでよかったのだが...

 最近、衣替えして、『社会の窓2』などといっている。しかし、内容はまったく違ってしまった。やはり、民放では文化の創造は不可能なんだろうな。スポンサーから見れば、どんなに文化的番組だろうと、視聴率調査装置を設置された世帯のレスポンスが全てだから、一部に異常に受けてしまった番組は、価値がないのだろう。

 くだんの番組宛メールには、苦情が殺到しているが、制作者は無視するだろう。なぜなら、きっと現在の視聴率のほうが以前より高いからだ。賞金をかけているから、それなりのバカは飛びつくだろう。そして、そうしたバカを相手に、スポンサーは間違ったレスポンスを受け取ることになる。

 いったい、深夜にテレビ番組を見ている層に視聴率調査装置のどの程度が割り当てられているのだろうか。24時間、テレビをモニターするわけでもないだろうから、スポンサーは、深夜時間にどのような購買層に自分の商品を告知できたと確信できるのだろうか。

 まあ、どちらでも同じことだか、これがウエッブページとなると、アクセス件数がリアルタイムで確認できるし、購買層の絞り込みもアンケートページなどを使えば可能だろう。そう、すでにテレビはしんだのである。

つたわらないもの1999年08月12日 06時10分

 言葉で伝えられるものなど、ほんのわずかなんだね。

 どのように言葉をつくしても、伝わらないことがいくらでもある。言葉にしても、使い使われる環境や人で、定義や用法が違っているから、なおさら誤解だらけの意思しか伝わらない。なんとももどかしい。

 もどかしくても、人間同志の交流に言葉の占める割合が大きいのも確かで、ましてや、書き言葉だけの世界では、半分も伝わればいいほうだろう。

 言葉は、人格をもっている。そして、言葉での議論には、人格攻撃という罠に陥りやすい。そこにはまりこんだら、あとは傷つけ合うだけの不毛が残り、初めにあった目的など、どこかへいってしまって、残されるものは、相手への非難と自己弁護だけという寂しい結果がまっている。

 それでも、人は言葉を使う。相手を認めるというのは、理解することではない。理解できたと思うことが誤解をうむからだ。理解はできないが、そういう言葉を発する存在があるということ、そして、己だって、相手から同じように思われているということを理解できれば、共生は可能だろう。意見が違うからといって、相手をへこましても、それで何が解決できるのだろうか。

 言葉は空しい。理解されたいなら、行動するしかないだろうが、そもそも理解して欲しいと思う心とは、いったいなんだろうか。誠意ある行動を示せば、相手も分かってくれてかわるだろうと思うのは、己が正しいと思っているからだろうか。そうであれば、なんと傲慢なことか。お前の正しさを決めるのは、いったい誰なんだ。もう一度考え直してみたい。

自然をなめるな?1999年08月17日 00時08分

 関東地方を襲った水害で、キャンプをしていた人々が遭難された。とくに丹沢山系では、ひどいようだ。『自然を甘く見てはいけない』などとアウトドアの専門家達がコメントしていた。

 待てよ! あの遭難現場のすぐ上流には発電用のダムがあるじゃないか。それって、彼等のいう自然かい? そして、そもそもキャンプという行為そのものは自然じゃないだろう。人間の営みとはなんの関係もない遊びだろう。きちんと言葉を使おう。『自然』じゃなくて、『天然』といおう。

 よしんば、正しい意味での『自然』として捕らえた時、これは位置エネルギーの解放という物理法則に人間という物体の重力の慣性力が負けたというだけの話だ。それいがいの事象は、すべて社会学的考察にまかせるべきであり、自然とはおこがましい。

 わざわざ、ダムの管理者はテント人達に警告までしてくれた。にもかかわらず、それを無視したのだ。そして、結果は無惨。なにやら、昔昔の日本軍を思い出す。インパール作戦とか、ガダルカナルとかね。『引き際』を知らない愚か者というしかない。そして、そんな彼等でも捜索はされている。この経費は全て税金だということを忘れるな。遭難死亡された方にむち打つような意見だが、こういう死に方を『犬死』というのだよ。